表千家歴代 初代 千利休(せんのりきゅう)1522-1591

千利休 茶聖

千利休の歴史

利休は堺の※1納屋衆(なやしゅう)の家に生まれ、幼名は与四郎といいました。

17才の頃、書院、台子の茶を継承する堺の北向道陳(きたむきどうちん)について
書を学び、のちに道陳の紹介で紹鴎(じょうおう)に師事して、本格的な茶の湯の修行を始め、
台子の伝授を受けます。

堺では笑嶺和尚(大徳寺百七世)につき、後年は大徳寺の古埃和尚(大徳寺百十七世)に
参禅してその道を極めます。

宗易(そうえき)の名と抛筌斎(ほうせんさい)の号を使い始めたのは19才の頃で、
23才の時にはすでに奈良の豪商、松屋久政を招いて茶会を催していたという記録が
あります。

利休が50才のとき、織田信長の前でお茶をたて、信長の※2茶頭(さどう)
の一人となり、信長の死後、天下を治めた豊臣秀吉の茶頭となりました。

天正十三年(1582年)、利休64才の十月、秀吉が禁裏御所において正親町天皇(おおぎまちてんのう)
にお茶を献じる禁裏茶会が催され、茶頭としてお茶をたてることになった利休は、
この茶会に先だって利休居士号(こじごう)を勅賜されました。

禁裏茶会は、天下一の宗匠としての利休の地位を揺るぎないものにし、
秀吉配下の大名たちは争って利休の弟子となりました。

ところが、晩年になると、美意識や権威について秀吉との対立が顕著になり、
ついに天正十九年(1591年)、大徳寺山門事件をきっかけに、
秀吉の勘気にふれ、同年2月28日、70才で自刃(じじん)することになりました。

利休は広間での書院台子の茶を守ると同時に、茶室を簡潔化して形を工夫し、
にじり口を設け、二畳畳、一畳半と極小の小間を造り、草庵の茶を完成させました。

その代表的な茶室が京都山崎に残されている待庵です。

唐物名物を尊重することは変わりませんが、一方で長次郎に新しい楽茶碗を作らせたり、
自作の竹の花入や茶杓などを使い、最低限の機能を備えた茶の湯の道具を考案しています。

天正19年2月28日没 享年70歳


※1 室町末期から安土桃山時代にかけて,納屋を所有し賃貸 によって利益をあげていた堺の豪商。
のちには会合(えごう)衆ともよばれ,町政を 取り仕切った。

※2 貴人に仕えて茶事をつかさどった茶の師匠。安土桃山時代に千宗易(利休)・
津田宗及らが信長・秀吉の茶頭を務め,江戸時代には各藩にも茶道方という職掌ができた。
禅院では「ちゃじゅう」と読んだ。

利休の好み

利休の好みですが、第一に思い浮かぶのが、黒の楽茶碗でしょうか?
利休は、自分の好みの道具を作らせ、それが有名な千家十職と後に呼ばれる職家です。

千家十職

千家十職(せんけじっそく)とは、茶道に関わり三千家に出入りする塗り師・指物師など十の職家を表す尊称です。

天保11年(1840年)の利休・二百五十年忌の頃には、駒沢利斎、大西清右衛門、西村善五郎、樂吉左衛門、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、土田友湖、中川浄益、塗師・余三右衛門が千家出入りの職方となっており、ほぼ現在と同様の顔ぶれができあがりました。

唯一名前のない中村宗哲に関しては、六代の喪中にあったためと思われています。

茶碗師・・・樂吉左衛門
釜師・・・大西清右衛門
塗師・・・中村宗哲
指物師・・・駒沢利斎
金物師・・・中川浄益
袋師・・・土田友湖
表具師・・・奥村吉兵衛
一閑張細工師・・・飛来一閑
竹細工・柄杓師・・・黒田正玄
土風炉・焼物師・・・西村(永樂)善五郎

コメント

タイトルとURLをコピーしました