前編では、栄西禅師(1141~1215年)が中国から茶の木を持ち帰ったのが茶の起源であること、その後、明恵上人に苗を渡し、京都でお茶の木の栽培が進み、僧侶たちにお茶が広まったことをお伝えしました。
その後、鎌倉時代末期に中国から「闘茶」という、お茶の種類を当てる遊び(賭け事)が伝わります。
いずれも僧侶や武家など、身分の上の人のみがたしなむもので、民間の人にはまだまだ手の届かないお茶でした。
室町時代になるととうとう侘茶が始まり、華美だったお茶の世界が一転していきます。
後半では、いよいよ侘茶、現在のお茶となるまでの歴史を紐解いていきます。
詫び茶の祖 村田珠光が作り出した「草庵の茶」
茶の湯は当初、貴人など位の高い人が楽しむことができるものでした。また、政治的な要素も多くありました。
ところが、室町時代の中旬以降、下々のほうでも茶の湯を楽しむことができるようになってきました。
唐物などの高価な道具は使わず、茶室も狭くて質素な趣の茶の湯、「草庵の茶」つまり侘び茶を作ったのが、村田珠光(むらたじゅこう 1423-1502)であるといわれています。
村田珠光は、奈良の称名寺(しょうみょうじ)の僧で、能阿弥から座敷飾りの相伝を受け、足利義政とも交流があったと伝えられています。
大徳寺の一休和尚に禅を学び、その精神を茶に取り込むことによって、草庵の侘び茶を確立し、その後侘び茶の開祖を言われるようになりました。
一間床のついた四畳半に炉を切ることを初め、竹台子は珠光の好みとして伝えられています。
村田珠光の後は、鳥居引拙(とりい いんせつ)や藤田宗理、その後武野紹鴎へ詫び茶が受け継がれていくことになります。
茶室の光の加減を取り入れ「侘敷(わひしき)」「寂敷(さひしき)」を立案した武野紹鴎
武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-1555)は室町時代の交易の中心地、堺の豪商の家に生まれ、若い頃から茶の湯、連歌、香道などを学び、南宗寺の大林和尚に禅を学びます。
やがて上洛して、珠光の伝える侘び茶を修得し、京都四条に大黒庵を開きました。
武野紹鴎は名物といわれる道具を60種も所有していたといわれています。
ところが、竹を削って自ら茶杓をつくったり、また青竹を切って蓋置にするなど、それまで唐物で使われていた高価な道具ではなく、手短なものですぐに作ることのできる木材を使用し、新たな美を茶の湯に加えることに成功しました。
四疊半より小さい三畳敷などの小座敷を考案し、草庵にふさわしい道具を取り入れて侘び茶をさらに深めます。
「山上宗二記」によると、紹鴎の四畳半茶室の図が載っていて、当時の茶室が見て取れます。
紹鷗は「茶室の中が明るすぎると、茶道具が貧相に見えてよくない。時間帯によって光が強くなる東、西、南向きの窓は避けるべき」とし、現在の小間と呼ばれる4畳半以下の窓の小さい茶室をつくりました。
紹鷗はそのなかでも4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」、それ以下の茶室を「侘敷(わひしき)」と呼び区別をしていました。
その後、利休に受け継がれ、とうとう現在の茶道へと完成していきます。
詫び茶(草庵の茶)の完成者・茶聖 千利休
茶道の歴史上一番有名な千利休(せんのりきゅう 1522~1591)の名前ですが、実は利休の名をもらったのは1585年と、利休の人生の終盤あたりです。
それまでは「宗易(そうえき)」と呼ばれていました。
町人の身分では参加できない禁中茶会に参加するため、「利休」というを居士号(こじごう)を正親町天皇から与えられました。
禁中とは宮中という意味で、貴人たちのみの茶会に参加するには、ある一定以上の身分が必要だったということです。
さて、利休の師ですが、南方録によると、武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだとされいて、それが通説となっていましたが、山上宗二記の記述では、利休の師は紹鷗ではなく辻玄哉(つじ げんさい)だった可能性が指摘されています。
ただ、辻玄哉の情報があまり残っておらず、詳細は詳しくはわかりません。
辻玄哉の師が武野紹鴎であったということなので、利休と関連はあったと思われます。
たくさんの資料の残る利休の功績と生涯をたどってみましょう。
利休の生涯
・1522年 堺の商家に生まれる
・1569年 堺が織田信長の直轄地となっていく過程で、堺の豪商茶人であった今井宗久、津田宗及とともに、信長に茶堂として召し抱えられる
・1582年 本能寺の変 その後豊臣秀吉に奉仕
豊臣秀吉に仕え始めたこの時から、利休の人生は激変していきます。
・秀吉に茶室を作るように命じられ、約半年をかけて現存する利休作の唯一の茶室である待庵(たいあん)を完成させる
現存する国宝の茶室は三庵のうちの一つです。
・1585年 正親町天皇への禁中献茶奉仕の後、秀吉の命により黄金の茶室を設計
・1587年 北野大茶湯を開催
同年完成した聚楽第内に屋敷を構え、禄も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇るだけでなく、政治にも大きく関わることとなっていきます。
・1591年 秀吉の逆鱗にふれ切腹を命じられる
利休は70歳で生涯を終えます。
利休は堺という当時は貿易の盛んな町で生まれます。
本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。
実家も有名な貿易商だったので、教養を養うために16歳で茶道の門をたたきます。
18歳の時に武野紹鴎に弟子入りし、60歳を過ぎたころ、「利休」の号を賜り、天下一の茶人となります。
大徳寺の利休像が「山門から人びとをゲタばきで見下ろすとは思いあがった態度」と秀吉の怒りにふれたのが原因の一つと伝えられていますが、他にも諸説あり、どれが本当なのかはわかりません。
利休の茶道における功績
利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込みました。
樂家初代・長次郎をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせたり、自らも茶室の設計、花入・茶杓の製作など道具の製作にも熱心に行っています。
現在も利休の道具や作法は受け継がれ、さらにまた後世の茶人たちが古いものを大切にしつつも、新しい道具や点前を考案しています。
利休の功績をまとめていきましょう。
楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具は、造形的には装飾性の否定を特徴としています。
名物を含めた唐物などに比べ、このような利休道具は決して高価なものではなく、利休の働きにより国内で作られた道具を用いられるようになりました。
また利休作の道具で有名なのが、竹花入の「園城寺」「尺八」「夜長」、茶杓では「なみだ」「面影」があります。
【点前】
茶道具を前もって飾っておかず、すべて茶室に運び入れるところから点前を始める「運び点前」を広めました。
「窓」を茶室に取り入れました。
師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引き、または、4枚引きの障子による一方向からだったのですが、利休は茶室をいったん土壁で囲い、そこに必要に応じて窓を開けるという手法を取ります。
こうすることで茶室内の光を自在に操って、必要な場所に明るさを、また暗くしたい場所には窓を作らず、詫び寂びの茶を演出することの成功しました。
さらに、天窓や風呂先窓なども工夫され、一層自在な採光が可能となります。
利休の茶室のような自由な建築モデルは、現代の日本の建築にも大きな影響を及ぼしています。
路地というと、単なる通路に過ぎなかった空間ですが、利休は茶の空間、もてなしの空間としました。
お客は路地から入室し、その際、亭主とは顔は合わせませんが、お辞儀をして挨拶をします。
路地は日々亭主が苔の状態の管理、落ち葉の掃除、当日の朝に植物や苔に水を打ち、お客様が滑らないように、石にたまった余分な水は丁寧に雑巾でふき取ります。
亭主はお客のことを思いながら手入れをし、お客はその路地を歩きながら亭主の心遣いに感激します。
茶事が終わると、またその路地を歩いて客は帰ります。
茶道とはお茶を飲むだけでなく、このようなすべて流れを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言えます。
以上のような利休の功績は、それまでの多くの支持者や古田織部などの後継者に恵まれたことで、利休を「侘び茶の完成者」と言わしめることができたのでしょう。
現在も「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くのものに利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統文化に大きな足跡を刻んでいます。
まとめ 茶道が日本で始まるまで
日本にお茶がきて、茶道として確立るまでの歴史をざっとみてきました。
いかがでしたでしょうか?
要点をまとめながら振り返ってみましょう。
・1191年 栄西が中国から茶の木を持ち帰り、日本に抹茶の飲み方を伝える
このころはまだ、抹茶は薬のような扱いでした。
・1214年 栄西がお茶の効能や製法を記した「喫茶養生記」(きっさようじょうき)を書き上げる
・1320年「闘茶」が中国から伝わり、お茶ブームへ。このころ庶民にも広がり始める
・1336年 足利尊氏が「建武式目」で「闘茶」を禁止とする。ここから茶道が創設されていく
・足利義政の同朋衆である能阿弥(のうあみ)が書院飾りや台子飾りなどを完成 この時はまだ茶室はない
・村田珠光が草庵の侘び茶を確立 現在の茶の湯の原点となる
・武野紹鴎(たけのじょうおう)が座敷を考案し、さらに侘茶を深いものにした
・千利休(せんのりきゅう)が侘茶を完成させる
利休の死後、利休の子孫が受け継いでいきます。
長男の道安が堺の本家堺千家の家督を継ぎましたが早くに断絶したため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わります。
少庵の息子の宗旦(利休の孫)がその後受け継ぎ、宗旦の次男宗守、三男宗左、四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、現在の3千家、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっています。
流派は分かれていますが、ルーツは全部千利休ですので、多少作法が違うとはいえ、茶の湯の心はすべて同じく、「一期一会」の精神、相手を思いあい、おもてなしをするという心構であると、私は先生から教わりました。
総合文化と称される茶道は、日本の文化や自然、そして海外文化も交りあったりします。
一生学んでも学びつくせないといわれるほど、魅力的な世界だと感じています。
現代のお茶がまたどうなっていくのかも楽しみですね。
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