先日の観月茶会でかかっていたお軸です。
9月の掛物と題していますが、10月も13夜があるので、10月に使ってもいいのではと思います。
「掬水月在手」
(みずをきくすればつきはてにあり)
月という字があるので、お月さまのきれいな時の禅語か詩でしょうか?
その作者って誰?
言葉の意味は何?
気になったので調べてみましたよ。(^-^)
「掬水月在手」の作者と意味は?
「掬水月在手」は「春山夜月」という漢詩の一節なんです。
作者は中国の詩人、于良史(うりょうし)の作品です。
唐時代の人なので618~905年代の人ですね。
私は英文学科卒なんですが、于良史(うりょうし)というお名前は初めて聞きました!
茶道をしていると、ほんと色々とお勉強になります(^-^)
「掬水月在手」の対句として、「弄花香満衣」があります。
両方とも有名なので覚えておくといいですね♪
「掬水月在手 弄花香満衣」
水を掬(きく)すれば 月、手にあり
花を弄(ろう)すれば 香、衣に満つ
両手で水を掬(すく)うと、夜空の月が手の中の水に映る。
花を手折ると、花の香りが衣にしみるほど満ちてくる。
お茶席の「掛物」としては、秋には前の句を、春には後の句を用いることが多いですが、
禅語として味わうならば、両者対句になっているところをしっかり味得したいところですね。
ということで、次に全詩をみていきましょう!(^-^)
于良史(うりょうし)の「春山夜月」全文と解釈
「春山夜月」 于良史(うりょうし)作
<原文>
春山多勝事
賞翫夜忘帰
掬水月在手
弄花香満衣
興来無遠近
欲去惜芳菲
南望鳴鐘処
楼台深翠微
<訓読>
春山勝事多し、賞翫して夜帰るを忘る
水を掬きくすれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ
興来らば遠近おんごん無く、芳菲ほうひを惜しんで去ゆかんとす
南に鳴鐘の処を望めば、楼台ろうだいは翠微すいびに深し
<訳>
山々の春、色彩は表出し、私の思いはそこで捉えられてしまう
彩りに触れ、それらが見えなくなる時間帯まで、そこにいてしまう水をすくえば月は水にうつり、この手の中にあり、かなたには月
花に触れれば香はうつり、私は香をまとい、木々には季節の花々どこまでが私なのだ、どこまでが私ではないものなのだ
この空間の遠近を超え、私の思いの高まりはかなたにまである
声の届かないかなたにまで思いは届き、かなたにまで私はあるそれなら距離とはなんなのか、届かぬかなたにまで私はある
この季節、見ることのできない香をまとい、私はどこまでも歩こう南からの鐘は高くひびく、春の天空に高くひびく
だが楼台は見えはしない、緑に埋もれ、ここから見えはしないいったい私はなにによって、この時空を知ることができるのか
どこまでが私なのだ、どこまでが私ではないものなのだ
明らかなのだ、かなた、時空を超えて人はそこにあり、私はある
それでは全文を読んだうえで、「掬水月在手」の意味を考えていきたいと思います。
「掬水月在手」を禅語として味わってみる
「掬水月在手」(みずをきくすればつきはてにあり)
直訳すると、
水面に映る月、その水を両手ですくうと、その手の中に月が写っている。
そんな風景が浮かびますね。
遠くにある月も、水を手に掬(すく)うという行為により、自分のてのひらの中の僅かな水面に映すことができる。
こう読み解くと、「努力により遠くの目標も入手できる」という意味に。
またあるいは、
月を真理とみなして、
「精進することにより、気がつけば一人一人の中に真理は共にある」
と、解釈することもできそうです。
月の光はすべてのものに平等に注がれます。
道も、すべての人に開かれています。
でも、「手ですくう」という、自らの働きかけがあって、
はじめてその光を自分のものとして感じることができるのでしょう。
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