茶道というと、千利休が確立したお茶の作法、そして詫び寂びという日本の芸術ですが、
抹茶を飲むという習慣はいつ頃からできてきたのでしょうか?
前編では、利休が茶道を始めるまでの歴史を見ていきましょう!
抹茶が日本にやってきた日
「抹茶」は鎌倉時代、栄西禅師(1141~1215年)が伝えたといわれます。
栄西は中国(宋の時代)に渡り、仏教の修行を積んで臨済宗を日本に伝え、その時に、茶の木を持ち帰り、抹茶の飲み方も紹介しました。
それが有名な「喫茶養生記」(きっさようじょうき)という本に書かれています。
「喫茶養生記」(きっさようじょうき)で一気に抹茶ブームに 将軍の二日酔いも治した「抹茶」について
栄西は鎌倉幕府3代将軍実朝が二日酔いで苦しむのを見て、抹茶を献上してその不快を取り除き、抹茶の効能や飲み方などを「喫茶養生記」に著して、抹茶を世の中に広めることに成功しました。
将軍の二日酔いを治したのだから、きっと、ものすごい反響だったのでしょうね!
その後、栄西は弟子である京都栂尾(とがのお)高山寺の明恵上人(1173~1232)に茶の木の種を贈り、茶を栂尾に植えて、良質の茶を作ることに成功しました。
そして、修行中の僧の眠気を取り除く助けになると抹茶を飲むことをすすめ、やがて僧侶の間に普及していきました。
茶カブキの前身「闘茶」(とうちゃ)の流行で一般庶民に広がった抹茶
茶道を習っている方はご存知かと思いますが、七事式の中に「茶カブキ」があります。
3種のお茶を飲んで、お茶を作られた会社名(いわゆるお詰め)を当てるという遊びですが、まだ茶道が確立されないうちから、同じような遊びがありました。
鎌倉時代末期に中国から伝わった「闘茶」です。
闘茶とは、栂尾(とがのお)のお茶「本茶」と、栂尾以外のお茶「非茶」とを飲み分ける遊びで、当時の公家や武士を中心に流行しました。
金品などの賭け事が絡んできたこともあり、一時禁止されていました。
賭博だと茶道の趣もなくなりますが、なんだか、気持ちは分かります(笑)
高価なものはよくないですが、何かを賭けたほうが盛り上がりますよね!
ちなみに、現在の茶カブキでは、一番当てた人にその時の成績が書かれた和紙を記念品としてもらえたりします。
室町時代になると、東寺の門前で「一服一銭」という売茶人が店を出していたという記録も残されており、一般庶民にまでお茶がが広がっていきます。
貴族たちのお茶「書院の茶」のはじまり
室町時代になると、唐物(からもの)名物を鑑賞しながら抹茶を飲むことが始まります。
唐物というのは、中国から渡った道具で、日本では高価なものとして扱われていました。
唐物お免状の記事もあるので参考に読んでみてくださいね。
これら高価な唐絵や唐物の道具を書院座敷に飾り、台子に風呂釜、皆具などを使い、書院座敷の次の間で立てたお茶を参会客に振舞います。
それは能阿弥(のうあみ)が書き残した「君台観左右帳記」(くんだいかんそうちょうき)に詳しく残されています。
能阿弥(1397年~1471年は室町時代の画家で、茶の湯において、書院飾りや台子飾りなどを完成させました。
ここまでの時代が、最初の高貴なイメージの茶道となります。お道具はほとんどが中国のもの、つまり唐物でした。
この後、現在の茶道、つまり、利休の目指す茶道が始まっていきます。
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